洋学史学会若手部会

洋学史学会に所属する大学院生・学部生を中心とする若手部会です。

【紹介】本ブログおよび今後の開催予定について

 洋学史学会若手部会は、洋学史学会に正式に承認された支部であり、洋学史学会に所属する大学院生・学部生などを中心とする研究会です。原則として偶数月第1土曜日の午後に開催します。 各種研究報告はもちろん、洋学史研究に関連する情報収集・共有の場としていく予定です。洋学史学会非会員の方であっても、参加は可能です。本ブログでは、洋学史学会若手部会の活動について発信していきます。
2023年4月28日現在での会員数 45名(正会員28名、賛助会員17名)

 お問い合わせは、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)までお願いいたします。Informationにて運営委員、会則、入会方法等についてご案内しています。

今後の開催予定について
 詳細は開催1ヶ月前を目途に更新予定です。

NEW!2024年度例会スケジュール】
2024年4月6日(土)
◆研究報告 *肩書は2024年2月末時点
 芦田雄樹(東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学系社会・人間科学コース 修士課程)
 河瀬真弥(京都大学大学院博士後期課程/京都大学大学院教育支援機構奨励研究員)

【開催案内】洋学史学会若手部会総会・4月例会

洋学史学会若手部会では下記日程にて、総会と4月例会を開催いたします。例会はどなたでもご参加いただけますので、ご関心のあるかたはご参集ください。
※対面・オンラインの併用での開催です。

【洋学史学会若手部会総会・4月例会】
◆2024年度 洋学史学会若手部会総会(Zoom併用)
日時:2021年4月6日(土)13:00~13:50
会場:電気通信大学(東京都調布市) 東1号館806教室
(Zoom URLは後日、総会議題と同時配布を予定)

※洋学史学会若手部会正会員のみ対象

◆洋学史学会若手部会4月例会(Zoom併用)
日時:2024年4月6日(土)14:00〜17:45 ※終了後に茶話会、懇親会を予定。
会場:電気通信大学(東京都調布市) 東1号館806教室
(Zoom URLは後日、報告資料と同時配布を予定)

事前登録制、登録はこちらから。
※4月4日(木)18:00申込締切。

 報告者①:芦田雄樹(東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学系社会・人間科学コース 修士課程)
「「赤松小三郎」の語られ方―没後から戦前期までを対象に―」

〈報告要旨〉
 上田藩士・赤松小三郎(1831―1867)は、議会制度導入を幕府などへ建白したことや『英国歩兵練法』などの兵書の翻訳などで知られるが、未だその功績についての評価は定まっていない。そこで本報告では、慶応3(1867)年に暗殺されて以降の赤松についての語られ方に焦点を当て、近代における赤松の評価を体系化することを目的とする。具体的には、同時代に生きた人物による暗殺直後の日記や、赤松に関わった人物による回想、その他赤松やその功績について書かれた諸記事を渉猟し、考察する。報告では、暗殺に関する記述のある『朝彦親王日記』や、赤松についての回想を聞き取った記事などを掲載している『上田郷友会月報』、『信濃毎日新聞』の赤松に関する言説を分析する。
 赤松は洋学者でありながら、洋学研究史において評価が定まったとは言えない。本報告で、赤松の洋学の評価にも言及し、歴史的意義についても検討したい。


〈参考文献〉
信濃毎日新聞社開発局出版部編『維新の信州人』(信濃毎日新聞社、1974年)
関良基『赤松小三郎ともう一つの明治維新―テロに葬られた立憲主義の夢』(作品社、2016年)
宮地正人『地域の視座から通史を撃て!』(校倉書房、2016年)

報告者②:河瀬真弥(京都大学大学院博士後期課程/京都大学大学院教育支援機構奨励研究員*)
「『日本大辞書』における音義説の位置」


〈報告要旨〉
 山田美妙『日本大辞書』(1892~1893年刊)は大槻文彦『言海』(1889~1891年刊)に触発されて編纂された国語辞書である。『日本大辞書』は『言海』に比べて記述が粗く、完成度の面において『言海』には及ばないとするのが、国語学史上の評価である。
 さて、『日本大辞書』には「音義説」という、現在では非科学的とされる語源理論に基づく記述が見られる。音義説とは、例えば「『な』『に』『ぬ』『ね』『の』には、『滑らかな』という意味がある」といったように、各々の「音」には「義」(意味)があるとする語源理論である。音義説という非科学的な理論を取り入れているということを理由に、『日本大辞書』の不出来をさらに追認することはたやすい。しかし、明治時代の国語学界の性格を清濁併せ呑んで全体的に把握しようという観点からは、音義説のどのような点に『日本大辞書』が惹かれたのか、という課題に取り組まなければならない。
 発表者は上記の課題について報告を行う。また、『日本大辞書』はどのような資料に依拠して音義説を取り入れたのか、『日本大辞書』の音義説は従来の音義説と比べてどのような特徴を持つか、という点についても報告する。

〈参考文献〉
河瀬真弥(2023)「『日本大辞書』における用例収集法の研究 序説:中古文学における「あさまし」を例に」(『京都大学国文学論叢』49)
古田東朔(1971)「近世」(古田東朔、築島裕『国語学史』東京大学出版会、第3章)
山田忠雄(1981)「言海以後」(山田忠雄『近代国語辞書の歩み:その模倣と創意と』上、第3部第2章、三省堂)
*肩書は2024年3月4日現在。

問い合わせ先:yogakushi.wakate@gmail.com(洋学史学会若手部会運営)

【内容報告】2024年2月例会

 洋学史学会若手部会では2月例会を対面・オンライン併用のハイブリッド形式で開催しました。以下、その概要を報告いたします。

日時:2024年2月3日(土)14:00〜18:00
開催場所:対面(電気通信大学)、オンライン(Zoom)

報告者①:中里灯希(一橋大学大学院社会学研究科修士課程)
報告タイトル:「斎藤阿具の歴史観」

報告中の風景(1)

 本報告では、明治期から昭和初期の教育者であり、日蘭交渉史研究者である斎藤阿具の著作類を、日蘭交渉史の先行研究ではなく、19世紀後半から20世紀初頭に生きた研究者の歴史観を知ることができる「史料」と捉えた。また、当時の教育者・研究者が歴史学に対してどのような考え方を持っていたか、などを考察した。
 報告者は、まず、斎藤が学生時代にドイツからのお雇い外国人であるルートヴィヒ・リースから歴史学を学んだことの意義として、実証史学の重視を指摘した。その上で、著作類の内容と叙述の傾向から、斎藤が、リースの伝えた実証史学を受容した一方、西洋流の、「東洋史」が含まれていない歴史学に限界を感じており、歴史学を、世界情勢における自国の立ち位置を確認し、自国を取り巻く問題を明らかにするツールとして位置付けていたことを明らかにした。
 また報告者は、修士論文において、斎藤がドゥフ研究を行った理由や、教育家としての歴史学と、研究者としての歴史学のズレなどを指摘したうえで、斎藤の人物研究を行う旨を、今後の展望として示した。
 参加者と報告者で、斎藤がドゥフを研究した経緯や、同時代史的に斎藤の目指した歴史学がどのように評価できるのか、教え子への影響などに関する質疑応答がなされた。

報告者②:布川寛大(國學院大学大学院博士課程後期)
報告タイトル:「吉田松陰による九州遊学の再検討−西洋列強情報の受容と反応−」

報告中の風景(2)

 本報告では、長州藩士・兵学者の吉田松陰が実施した九州遊学の再検討を通じて、近世後期における、ペリー艦隊来航前の西洋列強情報の受容と、その影響について考察した。その事例の一つを示すべく、遊学の意義を、吉田個人への影響から考え、時期ごとに分析した。
 報告者によると、遊学以前、吉田は『坤輿図識』を学ぶなど、ある程度西洋列強情報に接しており、英仏を忌避し、西洋砲術に対する和流砲術の優位性に自信があったことなどを示した。遊学中については、彼の遊学での読書活動の全体像を確認し、吉田の関心が、「西洋列強情報」から、「儒学に基づいた和漢古今の事蹟」へと変化したことを示した。遊学後、吉田は兵学の諸流派の統一を目指し、その方法は儒学的な心の修養であった。つまり、「外」である西洋列強情報を集めていた吉田が行きついたのは、「内」である東アジア文化圏共通の規範である儒学の再評価であった。遊学以前の吉田の西洋列強情報との接点や、特定の書籍への注目にとどまっていた、といった先行研究での課題を克服した。
 参加者からは、吉田が行った九州遊学の同行者の有無や費用などの確認や、オランダをどう見ていたかなどの点について質疑がなされた。

                               (文責:芦田雄樹)

【開催案内】洋学史学会若手部会2月例会

洋学史学会若手部会では、下記のとおり2月例会を開催します。
ご関心のある方はふるってご参集ください。
※対面・オンラインの併用での開催です。

◆洋学史学会若手部会2月例会(Zoom併用)
日時:2024年2月3日(土)14:00〜17:45 ※終了後に茶話会、懇親会を予定。
会場:電気通信大学(東京都調布市) 東1号館806教室
(Zoom URLは後日、レジュメと同時配布を予定)

事前登録制、登録はこちらから。
※2月1日(木)18:00申込締切。


報告者①:中里灯希(一橋大学大学院社会学研究科修士課程)
「斎藤阿具の歴史観」

〈報告要旨〉
 明治期から昭和初期にかけて活躍した教育者・日蘭交渉史研究者である斎藤阿具(1868-1942)は、第一高等学校在職中の1922(大正11)年に、『ヅーフと日本』を刊行した。『ヅーフと日本』は、東京帝国大学文科大学史学科で西洋流の歴史学研究手法を学んだ斎藤が、きわめて学術的な筆致によって、19世紀初頭のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥフ(1777–1835)に関する論考を行った研究書として知られる。本書の中には、斎藤の歴史観にもとづくドゥフ評価と考えられる文章を数点確認することができる。こうした傾向は、斎藤の他の著作『近世史』(1897)や『西力東侵史』(1902)にも認められるものである。
 本報告では、『ヅーフと日本』を始めとする斎藤の著作類を、日蘭交渉史の先行研究としてではなく、19世紀後半から20世紀初頭を生きた研究者の歴史観を知ることができる「史料」として捉え、当時の教育者・日蘭交渉史研究者の歴史観がいかなるものであったのか、考察する。

〈参考文献〉
永原慶二『二〇世紀日本の歴史学』(吉川弘文館、2003年)
小澤実・佐藤雄基編『史学科の比較史 歴史学の制度化と近代日本』(勉誠出版、2022年)

報告者②:布川寛大(國學院大学大学院博士課程後期)
「吉田松陰による九州遊学の再検討−西洋列強情報の受容と反応−」(仮)

〈報告要旨〉
  本報告は、近世後期の長州藩士で兵学者の吉田松陰を取り上げ、同人が嘉永3年(1850)に実施した九州遊学中の読書活動における興味の変化に注目することで、西洋列強情報が同人へ与えた影響を考察するものである。
 古く、松陰による九州遊学は、晩年の尊皇思想とのかかわりから、主に陽明学や水戸学との関係で評価をされてきた。一方、近年では、「ウェスタン・インパクトとの邂逅」と評価されるなど、同遊学中の松陰による積極的な西洋列強情報の学習が注目されている。しかし、これらの研究・評価は、遊学中における松陰の読書活動のうち、特定の書籍との関係から九州遊学の意義を論じる傾向にあり、改めてその全体像を総合的に理解する必要があると考えている。
 そこで本報告では、主に松陰が遊学中につけた日記から読書記録を復元することで、遊学中における読書傾向の変化に注目したい。これは、藩の兵学者としてその対応に迫られる松陰個人と西洋列強情報との関係を明らかにするとともに、西洋列強の脅威が具体化しはじめる当該期において、西洋列強情報が近世社会へ受容される際の反応を示す一事例になると考えている。


〈参考文献〉
山口縣教育會編『吉田松陰全集(定本版)』第七巻(岩波書店、1935年)
桐原健真『吉田松陰の思想と行動−幕末日本における自他認識の転回−』(東北大学出版会、2009年)
栗田尚弥「葉山佐内の思想に関する一考察−「思想家」吉田松陰誕生前史−」(『法学新報』第9・10号、2015年)

問い合わせ先:yogakushi.wakate@gmail.com(洋学史学会若手部会運営)

【新企画】「情報共有会」の実施について

 2023年10月例会にて、洋学史学会若手部会において新たな企画として「情報共有会」を実施しました。第一回は、東北大学大学院の増田友哉氏に「ライデン大学留学報告」と題して報告をしてもらいました。

東北大学大学院・増田友哉氏(Zoomより)

留学先のライデン大学図書館Asian Library(Zoomより)

 報告、質疑を含めて25分という短い時間でしたが、オランダとりわけライデン大学の様子が参加者たちによく伝わり、充実した会となりました。急な依頼にもかかわらず、快く引き受けて頂いた増田氏に厚く御礼申し上げたいと思います。
 「情報共有会」は、若手研究者が互いの研究活動について共有する場として、今後も例会ごとに実施を予定しています(次回は2024年2月例会を予定しています)。ご報告希望の方は、部会運営にメール、もしくは例会開催時に気軽にお声がけください。

                              (文責・橋本真吾)

【開催案内】洋学史学会若手部会12月例会 ※プログラム変更※

洋学史学会若手部会では、下記の通り12月例会を開催します。
ご関心のある方はふるってご参集ください。
※対面・オンライン併用開催です。

◆洋学史学会若手部会12月例会(Zoom併用)
日時:2023年12月17日(日)14:00〜17:10 ※終了後に茶話会を予定
会場:関西学院大学梅田キャンパス(大阪府大阪市)1401教室
(Zoom URLは後日、レジュメと同時に配布予定)
*対面会場が通常と異なります。ご注意ください。
アクセス | 関西学院大学 大阪梅田キャンパス

事前登録制、登録はこちらから。

forms.gle※12月3日(日)申込締切

内容(敬称略)

研究報告:武正泰史(東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程)
タイトル:「麻田派天文学者による『拾璣算法』の受容」
※報告者変更となりました(11月22日追記)

〈要旨〉
 久留米藩7代目藩主・有馬頼徸(1714–1783)の『拾璣算法』(1766年序・1769年刊)は、当時の様々な数学の知識を集成したものであった。同書は明和6(1769)年に出版されて以降、和算家による解説書の執筆や、書肆による改版が行われており、多くの読者に読まれていたことが推察される。その読者の中には寛政の改暦に関わった麻田剛立(1734–1799)、高橋至時(1764–1804)、間重富(1756–1816)といった天文学者も存在していた。特に麻田剛立は『弧矢弦論解』(写本)、高橋至時は間宛の書簡で『拾璣算法』に言及している。
 本報告では、麻田剛立と高橋至時が『拾璣算法』に言及した2つの史料を分析し、麻田と彼の弟子達が『拾璣算法』に対して、どのように注目し、研究したのかを検討する。これにより『拾璣算法』出版の影響の一端について考察する。
〈参考文献〉
大分県立先哲史料館編『麻田剛立資料集』大分県教育委員会、1999年。


報告:平岡隆二(京都大学人文科学研究所)

タイトル:「キリシタン布教と科学伝来-新発見の宇宙論教科書『スヘラの抜書』を中心に」

〈要旨〉
 2019 年、西洋科学の日本伝来にまつわる新たな重要史料が、ドイツのヘルツォーク・アウグスト図書館(Herzog August Bibliothek。以下 HAB と略称)で発見された。それが、キリシタン時代にイエズス会が編纂した日本語宇宙論教科書『スヘラの抜書』(ペドロ・モレホン編、17世紀初頭?)である。この宇宙論教科書については、ラテン語原典にあたる『天球論 De sphaera』(17世紀初頭?)と、その本文からキリスト教的な言辞を取り除いた改訂日本語訳『二儀略説』(17世紀後半?)の存在が、すでに知られていた。『スヘラの抜書』は、その両書の空隙を埋めるいわばミッシング・リンクにあたり、日本語で書かれた最古の西洋科学書と見られる。本発表では、とくに1)内容と構成、2)成立をめぐる諸問題、3)後代における利用と影響、を中心に、『スヘラの抜書』の歴史的位置づけと意義について考えてみたい。

問い合わせ先:yogakushi.wakate@gmail.com(洋学史学会若手部会運営)

【内容報告】2023年10月例会

 洋学史学会若手部会では10月例会を対面・オンライン併用のハイブリッド形式で開催しました。以下、その概要を報告いたします。

日時:2023年10月7日(土)14:00〜17:00
開催場所:対面(電気通信大学)、オンライン(Zoom)

例会の風景

報告者①:谷地彩(上智大学非常勤講師)
報告タイトル:フランシス・ブリンクリーの日本観-『ブリタニカ百科事典』第10版を中心に

 本報告では、フランシス・ブリンクリーが執筆した『ブリタニカ百科事典』第10版(1902–1903年)の「Japan」項目の分析を通して、彼の日本観について考察した。報告では1902年の日英同盟締結と同時期に事典が刊行されたこともあり、「Japan」項目は大きな注目を集め、当時のイギリスの新聞書評でも高い評価を受けたことが指摘された。当時在日外国人から、ブリンクリーは「日本贔屓」であり、彼が経営・編集する英字新聞『ジャパン・メイル』は明治政府の御用新聞であるなどと批判されていた。こうした評価に対し、報告者はブリンクリーによって執筆された「Japan」項目の分析により、彼が日本について評価すると同時に欠点も指摘するなど、「日本贔屓」ではなく客観的な描写につとめ、独立国としての特徴を記述していたことを明らかにした。
 参加者からは、ブリンクリーが日本に長期滞在する中での日本観の変化や、『ブリタニカ百科事典』「Japan」項目を執筆する際に用いた参考文献がどのようなものか等について質問がなされた。

報告者②:原島美穂(駒澤大学大学院修士課程)
報告タイトル:「井上馨外相期における青木周蔵の動向-ビスマルク説得運動を中心に」
 本報告では、井上馨外相期に行われた非公式の政治工作「ビスマルク説得運動」を中心に、日独間の条約改正交渉の展開について考察した。報告者はまず先行研究をもとに木戸孝允や青木周蔵の史料を用いて、19世紀以降の日本におけるドイツやビスマルクへの憧憬の高まりを説明した。次に、先行研究を踏まえつつ、外交文書などの分析により、井上馨にドイツへの働きかけを命じられた駐独公使青木周蔵が宰相ビスマルクの説得を試みたこと、青木の交渉は一時膠着状態に陥るも、憲法調査のため渡欧してきた伊藤博文とビスマルクとの会談が実現したことを機に対独交渉が動き出し、ドイツ政府が条約改正のイニシアチブを取るという合意を得るに至ったことを整理した。報告者は、最終的には青木がドイツ政府の合意を得ることができ、改正会議を前にした段階で日本政府は説得運動が成功したとの認識であったことから、先行研究の一部で指摘される「ビスマルク説得運動」は失敗したという評価は早急であるとした。 
 参加者からは、この後の皇帝ヴィルヘルム2世による世界政策との関わりについての質問や、ヨーロッパにおけるドイツが置かれた政治状況も踏まえると良いという提案がなされた。

                              (文責:阿曽歩)