洋学史学会若手部会

洋学史学会に所属する大学院生・学部生を中心とする若手部会です。

会員の新刊情報(堅田智子氏、阿部大地氏)

 2022年4月、本会会員の堅田智子氏(流通科学大学講師)、阿部大地氏(佐賀県立博物館学芸員)による論文が収録された『1873年ウィーン万国博覧会-日墺からみた明治の本の姿』が思文閣出版より刊行されます。

f:id:yougakushi-wakate:20220310161435j:plain

『1873年ウィーン万国博覧会』表紙

◆書誌情報
ペーター・パンツァー、沓澤宣賢、宮田奈奈編『1873年ウィーン万国博覧会―『日墺からみた明治の本の姿』思文閣出版、2022年4月。
定価:9,680円

◆会員担当箇所
Ⅰ ウィーン 日本趣味の熱狂とそのゆくえ
第4章 ウィーン万国博覧会後のジャポニスムをめぐって――「日本古美術展」とシーボルト兄弟寄贈日本コレクション(堅田智子)

Ⅱ 日本 国家事業としての参同
第8章 ウィーン万国博覧会の展示品収集と「産物大略」(阿部大地)


 ご興味のある方は、ぜひお手にとっていただけますと幸いです。

【内容報告】2022年2月オンライン例会

 洋学史学会若手部会では2月オンライン例会を開催し、2名の会員による研究報告が行われました。以下にその概要を報告いたします。

日時:2022年2月5日(土)14:00〜16:10

報告者①:阿曽歩(国際基督教大学博士研究員)
報告タイトル:「大槻家の「家学」に関する試論:故郷という視点から」
 
 本報告は大槻玄沢による故郷や「家」に関する記述から、彼の「家」意識を捉えようとするものである。
 「家学」とは近世日本における学問継承のあり方の一つである。従来、大槻家についての総合的研究は行われてこなかったが、大槻家の家学を明らかにすることで、蘭学史の描き方を再検討できるのではないかと考えられる。
 玄沢や彼らの息子や孫が故郷・一関(息子らは江戸生まれであるが一関を故郷と捉えていた)への強い思いがあったことは先行研究においてすでに指摘されている。今回は特に玄沢の言動に注目し、彼の故郷への思いを、単なる「ふるさと愛」といった現代的感覚ではなく、そこに一族意識・「家」意識が働いていたことを明らかにした。
 報告後は、近世日本の学者の家にも、ヨーロッパに見られるような学問を家業とする認識があるのかといった質問に対し、林家の事例などに見られることや、また大槻家の認識を今後さらに論じていきたいという応答等がなされた。


報告者②:菊地悠介(大本山永平寺学術事業推進室調査研究員・川崎市市民ミュージアム学芸スタッフ)
報告タイトル:「射和文庫における蔵書の構造と特質―特に竹川竹斎収集の翻訳書について―」
 
 本報告は、伊勢の竹川竹斎が創設した射和文庫の構成や書物の来歴について明らかにしようとしたものである。
 射和文庫には翻訳書や洋書が多く含まれているが、従来の研究ではこれらの書物は取り上げられてこなかった。このような翻訳書・洋書による情報収集の過程を明らかにすることは、知識の伝播とその活用の実態(目的や地域への影響)を知る上で重要である。
 射和文庫には幅広い分野の翻訳書が含まれる。またその内容から、文化・文政期から海外情報を広く集めていることや、入手経路が判明するものでは、勝海舟からの寄贈書が多いことも特徴として挙げられる。そしてこの勝海舟との繋がりは、書物の寄贈だけでなく、竹川竹斎の商売ほかでのネットワークとして活きていたことが指摘できる。
 報告後は、蔵書研究として他家との比較の必要性への指摘や、竹川竹斎の関心が本草学から海防へ移ることを踏まえ、竹斎が書物を入手した時期に着目してはという提案もなされた。

                             (文・西脇彩央)

【開催案内】洋学史学会若手部会2月オンライン例会

洋学史学会若手部会では2月オンライン例会を開催致します。
ご関心のある方は奮ってご参集ください。

【洋学史学会若手部会2月オンライン例会】
日時:2022年2月5日(土)14:00〜16:10(例会終了後に茶話会を予定)
会場:参加者にURLを送付
参加資格:なし ※会員、非会員にかかわらずご参加いただけます。
ただし、事前登録制(登録はコチラ※2月3日(木)17:00入力締切
回答後に変更が生じた場合、期日までにフォームを編集するか、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)まで直接、ご相談ください。

報告者①:阿曽歩(国際基督教大学博士研究員)
報告タイトル:「大槻家と故郷(仮)」
〈報告要旨〉
 大槻玄沢やその息子磐渓、さらにその息子如電・文彦ら、名だたる学者たちを輩出した大槻家の本家(「宗家」)は一関にある。長く江戸で暮らした玄沢に加え、江戸生まれの息子や孫もまた、先行研究が指摘するように、みな一関を故郷と認識していた。
 「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也」と、林子平『海国兵談』の叙述を挙げるまでもなく、近世後期には世界地図や世界地理書の広まりにより、人々の世界観は大きく変化していた。そのような中で、玄沢は蘭学を担うものとして世界へと目を向ける一方で、同時に故郷への目配りも欠かさなかった。
 本報告では、大槻家、主に玄沢と磐渓に注目し、彼らの故郷への思いについて考察したい。世界が広がる中での地域への眼差しは如何なるものであったのだろうか。また、「宗家」との関連の中で、彼らにとって故郷はどのような意味を持ったのだろうか。

【参考文献】
相馬美貴子「大槻玄沢とふるさと一関」『GENTAKU 〜近代科学の扉を開いた人〜』一関市博物館、2007年
リンジー・モリソン「近世における「ふるさと」考」『アジア文化研究』41号、2015年

報告者②:菊地悠介(大本山永平寺学術事業推進室調査研究員・川崎市市民ミュージアム学芸スタッフ)
報告タイトル:「射和文庫における蔵書の構造と特質―特に竹川竹斎収集の翻訳書について―(仮)」
〈報告要旨〉
 射和文庫は伊勢国飯南郡射和村の竹川竹斎が嘉永7年(1854)に創設した私立図書館である。蔵書数は親戚・知人からの献本もあって1万冊余りに及んだが、明治以降散逸した。だが、現在も文庫は存続しており、ご子孫の管理のもと、竹川家や射和村に関する史料も含めておよそ3,000点が収蔵されている。
 また、射和文庫には、洋書の翻訳書が多数所蔵されている。幕末期には、様々な情報を知識人や有力村役人層が盛んに収集・活用しており、それらは諸家の資料目録を見てもそれがよくわかるが、射和文庫程の翻訳書を所蔵している家はあまり存在しないと考えられる。
 そこで、本報告では、射和文庫に所蔵されている蔵書の構造と蔵書内で翻訳書がどの程度を占めているのかを明らかにし、できうる限り翻訳書一点一点の情報及びそれらの入手経路を明らかにしたいと考えている。入手経路については、竹川竹斎の日記の記載からおっていきたいと考えている。そして、最後に翻訳書を所蔵していることがどのように竹川竹斎に影響を与えたのかについても言及したい。

【参考文献】
射和文庫蔵書目録編集委員会編『射和文庫蔵書目録』竹川竹斎翁百年祭実行委員会、1981年
高倉一紀「竹口家の教養と国学―蔵書構成と所蔵率の分析―」『伊勢商人竹口家の研究』泉書院、1999年
上野利三『幕末維新期伊勢商人の文化史的研究』多賀出版、2001年
松尾由希子「近世後期商家の蔵書形成と活用一陸奥国内池家の事例より一」『日本の教育史学』50、2007年
工藤航平『近世蔵書文化論―地域「知」の形成と社会―』勉誠出版、2017年

 

 



【内容報告】2021年12月オンライン例会

洋学史学会若手部会では12月オンライン例会を開催し、2名の会員による研究報告が行われました。いかにその概要を報告いたします。

日時:2021年12月4日(土)14:00〜16:10

報告者①:塚越俊志(東洋大学非常勤講師)
報告タイトル:「ラクスマン来日前後の松平定信のロシア認識」
 本報告は、ロシア使節ラクスマン来日(1792年)による松平定信のロシア認識の変化を通じて、幕末に本格化する海防の起点について検討したものである。
 松平定信や蝦夷地・ロシアに関する文書・書物に基づき、以下のことが明らかにされた。定信は、ラクスマン来日前から既にロシアを意識して蝦夷地の地理情報を収集していたが、ラクスマン来日後には、ロシアに対する防備のため蝦夷地開発へと動き出したほか、同時期から洋書を収集し、儒学者・蘭学者らからも情報を得るようになった。ただし、定信に限らず他の老中も各々の情報網で北方情報を収集したとみられる。以上から、ラクスマン来日は幕府が海防の必要性を認識する契機となった出来事であったという結論が示された。さらに、今後は定信が収集した情報の現実の海防への反映状況を解明したいという展望が述べられた。
 報告後は、「海防」の語の定義や、老中以外の幕府役人の情報収集の動向、「寛政異学の禁」の位置付けについての質疑応答が行われた。

報告者②:藤本健太郎(長崎外国語大学講師)
報告タイトル:「明治期長崎における衛生行政の展開」
 本報告は、明治18〜19年の長崎区における2度のコレラ流行に対する都市社会の構成員の動向から、コレラ予防対策が段階的深化を遂げた過程について検討したものである。
 実業家の書簡や当時の新聞をもとに以下のことが指摘された。明治18年のコレラ流行時、国際貿易港長崎では経済的打撃が大きかったため、避病院の設置や下水道の整備といった対策が講じられていった。さらに、明治19年の流行を契機に上水道施設が整備され都市機能が向上した。この発展の背景には、医師による民衆への啓発活動や、行政官による予算面での対応、実業団体によるインフラ整備への支援が存在していた。以上のように、長崎区におけるコレラ予防対策が2度のコレラ流行を経て段階的に発展したことが、医学者・行政官・実業家の視点から明らかにされた。さらに、後に実業家が長崎市政に参画していく動向との接続が展望された。
 報告後の質疑応答では、コレラ流行時の病院の動向や、上水道整備による住環境の変化といった論点が挙げられた。

                             (文・山本瑞穂)

【開催案内】洋学史学会若手部会12月オンライン例会

洋学史学会若手部会では12月オンライン例会を開催致します。
どなたでもご参加いただけますので、ご関心のある方は奮ってご参集ください。

【洋学史学会若手部会12月オンライン例会】
◆12月4日(土)開催
日時:2021年12月4日(土)14:00〜16:10(例会終了後に茶話会を予定)
会場:参加者にURLを送付
参加資格:なし ※会員、非会員にかかわらずご参加いただけます。
ただし、事前登録制(登録はコチラ※12月2日(木)17:00入力締切
回答後に変更が生じた場合、期日までにフォームを編集するか、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)まで直接、ご相談ください。

報告者①:塚越俊志(東洋大学非常勤講師)
報告タイトル:「ラクスマン来日前後の松平定信のロシア認識」
〈報告要旨〉
 ロシアの南下に対応すべく、老中田沼意次は天明5年(1785)普請役山口鉄五郎らに蝦夷地調査を命じた。田沼の老中解任とともに、この調査団の任務は終了した。この調査は松平定信が老中となっても一部引き継がれる。
 こうした情勢下で、寛政4年(1792)10月3日、ロシアから北部沿海州ギジガ守備隊長アダム・ラクスマン(Adam Kirillovich Laxman)陸軍中尉は漂流民となった神昌丸の船頭大黒屋光太夫らを送還するために、根室へやってきた。その時に、老中松平定信は「信牌」を渡し、交易をしたいならば、長崎に回るよう指示した。しかし、ラクスマンは長崎に回航せずにそのまま帰国した。
 本報告では、松平定信がロシアに対してどのような情報収集・分析を行って対応しようとしたのかを明らかにする。情報収集の対象として、定信以外の老中、蘭学者や儒学者らが挙げられるため、彼らの認識を踏まえた考察を試みる。

【参考文献】
木崎良平『光太夫とラクスマン』刀水書房、1992年
秋月俊幸『日本北辺の探検と地図の歴史』北海道大学図書刊行会、1999年
生田美智子『外交儀礼から見た幕末日露交流史』ミネルヴァ書房、1999年
松本英治「寛政期の長崎警備とロシア船来航問題」(青山学院大学文学部『紀要』第41号、2000年)
藤田覚『近世後期政治史と対外関係』東京大学出版会、2005年
高澤憲治『松平定信政権と寛政改革』清文堂出版、2008年
高澤憲治『松平定信』吉川弘文館、2012年

 

報告者②:藤本健太郎(長崎外国語大学講師)
報告タイトル:「明治期長崎における衛生行政の展開」
〈報告要旨〉
 明治18(1885)年から明治19(1886)年にかけ長崎区で発生した二度のコレラ流行の経験は「検疫停船規則」「伝染病予防心得」などに基づく、清潔法・摂生法・隔離法・消毒法の遵守及び励行に留まっていた同区のコレラ対策を短期間で一変させた。
 国際貿易港であった長崎においては、内国船・外国船の入港減少や風評被害という地域経済に悪影響を及ぼす事態に直面し、明治18年のコレラ流行後は避病院の増設や下水道の整備に乗り出すとともに、明治19年のコレラ流行後は衛生工事の中でも最良の手段と謳われていた上水道施設の整備へとコレラ予防対策が高まりを見せる。
 一連の動きの背景には、県立長崎病院の医師や市井の開業医たちによる臨床・一般民衆への啓発活動に加え、長崎県庁を中心とした行政官による県会の議決を超然した衛生費の補正予算執行や先例のない公債発行、上水道施設という都市インフラの整備に向けた実業団体の支援などが存在していた。
 強力な毒性を持つ感染症に続けて見舞われた、長崎区におけるコレラ予防対策が段階的に深化してゆく過程を、医学者・行政官・実業家それぞれの視点から明らかにしたい。
 
【参考文献】
市川智生「近代日本の開港場における伝染病流行と外国人居留地-一八七九年「神奈川県地方衛生会」によるコレラ対策-」『史学雑誌』第117巻第6号、2008年
松本洋幸『近代水道の政治史』吉田書店、2020年

【内容報告】2021年10月オンライン例会

洋学史学会若手部会では8月オンライン例会を開催し、2名の会員による研究報告が行われました。以下にその概要を報告いたします。

日時:2021年10月2日(土)14:00〜16:10

報告者①:武正泰史(東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程)
報告タイトル:「和算における「点竄」の普及と解釈について」

 本報告では、江戸時代における数学用語「点竄」をめぐり、その評価や普及過程について、江戸時代中期から明治時代に出版された和算書から、通時的に検討された。
 数学用語としての点竄が最初に登場した出版物は、久留米藩主・有馬の『拾璣算法』(1769年刊)であった。本書により、点竄と傍書法が一括に理解され、後続の出版物にもその形式が受け継がれた。それゆえ筆算や代数学との類似点が見出されることにつながる。文化期には、点竄の本源は西洋の筆算である、点竄の本源は関孝和の帰源整法を改称したものであるといった『拾璣算法』とは異なる解釈が登場した。この解釈は文政・天保期の出版物にも踏襲される。安政期以降、西洋数学が本格的に導入され始めると、一部の和算家が点竄を代数学と同等に評価するようになった。その結果東京数学会社が設立した訳語会で点竄がalgebraの訳語候補にあげられることとなった。
 質疑応答では、史料の性格や東京数学会社の特徴、点竄をめぐる実態、関流以外の和算家の著述も見る必要性などが議論された。

報告者②:堅田智子(流通科学大学商学部講師)
報告タイトル:「青木周蔵とアレクサンダー・フォン・シーボルト―「国家を診る医者」を目指した二人の外交官―」

 本報告ではドイツと関係の深かった外交官・青木周蔵と、彼と共に外交を担ったアレクサンダー・フォン・シーボルトの関係性について、両者の出自や交流、外交姿勢から検討された。
 両者の共通性は、医家出身ながら自らの意思で「国家を診る医者」ともいうべき外交官を目指した点にあった。青木がシーボルトを雇用して以降、両者の交流は深まった。青木は、シーボルトが欧州各国に広がる人的ネットワークを有し、日本語、日本文化、日本の情勢・外交を熟知していたことから彼を重用した。他方シーボルトも、みずからの出世を阻む一因となっていた学識の不足をベルリン日本公使館駐在時にベルリン大学法学部で学ぶことで解消しようとしたが、これは青木の助言によると思われる。こうしたことからも、両者は互いの外交官としての欠点を補い合っていたと考えられる。両者は外交官としての目標にも共通性が見られ、これは1879年の北ボルネオ買収計画からも窺える。両者には同志的関係が認められる一方、現存する史料を分析する限り、互いについて多くは語っていない。その意味を検討する際、両者の信頼関係や、機密性が高い外交分野に従事しており書けなかったなどの視点を考慮すべきと指摘された。
 質疑応答では、青木研究を進める上での必読文献である『青木周蔵自伝』の性格、日本でシーボルトの知名度が低い背景、関係解明における追悼文検討の意義、欧州における史料の保存形態や閲覧の難易度など、幅広い議論がなされた。

                                (文・熊野一就)

【洋学史学会若手部会10月オンライン例会】開催案内

洋学史学会若手部会では10月オンライン例会を開催致します。
どなたでもご参加いただけますので、ご関心のあるかたは奮ってご参集ください。

【洋学史学会若手部会10月オンライン例会】
◆10月2日(土)開催
日時:2021年10月2日(土)14:00~16:10(例会終了後に茶話会を予定)
会場:参加者にURLを送付
参加資格:なし ※会員、非会員にかかわらずご参加いただけます。
ただし、事前登録制(登録はコチラ
※9月30日(木)17時入力締切
回答後に変更が生じた場合、期日までにフォームを編集するか、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)まで直接、ご相談ください。

報告者①:武正泰史(東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程)
報告タイトル:「和算における「点竄」の普及と解釈について」(仮)
〈報告要旨〉
 本報告は江戸時代の数学用語である「点竄」が、どのように解釈され、普及したのかを検討するものである。
 元々「点竄」は有馬頼徸(1714-1783)の『拾璣算法』(1769年刊)によって世に広まった。同書の出版後、「点竄」は版本、写本問わず様々な数学書の中で言及され、江戸時代後期から明治にかけて多くの数学者が知る用語となった。さらに東京数学会社による訳語会では、algebraの訳語の候補として「点竄」が提案されており、明治初期の一部の数学者は代数と同等の意味で解釈していた。
 しかし、これまでの研究では「点竄」がどのように評価され、algebraの訳語にもあげられたのか、その歴史的背景について十分な検討がなされていない。そこで本報告では、『拾璣算法』以後に出版された数学書に注目することで、江戸時代の数学者がどのように「点竄」を位置づけていたのかを検討し、訳語会での主張が生まれるに至った背景を明らかにする。

【参考文献】
薩日娜『日中数学界の近代』臨川書店、2016年。
日本学士院編『明治前日本数学史』全5巻、岩波書店、1954-1960年。
「日本の数学100年史」編集委員会編『日本の数学100年史』上下巻、岩波書店、1983-1984年。

報告者②:堅田智子(流通科学大学商学部講師)
報告タイトル:「青木周蔵とアレクサンダー・フォン・シーボルト―「国家を診る医者」を目指した二人の外交官―」
〈報告要旨〉
 「独逸翁」、「独逸の化身」と称された青木周蔵(1844-1914)を知る上で、「明治のサブリーダーである青木の個性の強い記録」といわれる『青木周蔵自伝』(以下、『自伝』)は必読の書であり、史料的価値は高い。だが、『自伝』では、条約改正交渉におけるオットー・フォン・ビスマルク説得工作(1880年~1881年)、伊藤博文憲法修業(1882年~1883年)、日英通商航海条約の締結(1894年)、獨逸学協会学校専修科ドイツ人教師の選定と任用(1888年)などにともに関わったアレクサンダー・フォン・シーボルト(Alexander von Siebold, 1846-1911)について、いっさい言及はない 。
 『自伝』に校注を加えた坂根義久は、「自伝中には、青木の人物評価というか、人間に対する愛憎の深さが、実に鮮やかに画き出されている」と分析したが、『自伝』に登場しないシーボルトは、青木の「愛憎」の対象とさえなり得なかったのか。本報告では、外務省外交史料館所蔵の外交文書、東京大学総合図書館所蔵のアレクサンダー・フォン・シーボルトの日記、ブランデンシュタイン城シーボルト・アーカイヴ所蔵の書簡や覚書を史料に、出自、ベルリン日本公使館における交流、北ボルネオ買収計画(1879年)を例とした外交姿勢の観点から検討し、両者が書き残そうとしなかった関係性について考究していく。
 なお、本報告は、2022年4月から6月に久米美術館にて開催予定の特別展「プロイセン気質の日本人―明治の外交官・青木周蔵の横顔」(仮)の図録に収録予定の同名論文に基づく。

【参考文献】
Vera Schmidt, „Eine japanische Kolonie in Nord-Borneo: Alexander von Siebolds Memorandum“ in: Fakultät für Ostasienwissenschaften der Ruhr-Universität Bochum (Hg.), Bochumer Jahrbuch zur Ostasienforschung, Bd.20, München: IUDICIUM Verlag, 1996, S.15-28.
青木周蔵、坂根義久校注『青木周蔵自伝』東洋文庫、1994年。
坂根義久『明治外交と青木周蔵』刀水書房、1985年。
福島博編『獨逸學協會學校五十年史』獨逸學協會學校同窓會、1933年。
堅田智子「外交官アレクサンダー・フォン・シーボルトの描いた明治日本――広報外交戦略の立案と展開――」博士学位取得論文、2016年度上智大学提出。