洋学史学会若手部会

洋学史学会に所属する大学院生・学部生を中心とする若手部会です。

【開催案内】洋学史学会若手部会12月オンライン例会

洋学史学会若手部会では12月オンライン例会を開催致します。
どなたでもご参加いただけますので、ご関心のある方は奮ってご参集ください。

【洋学史学会若手部会12月オンライン例会】
◆12月4日(土)開催
日時:2021年12月4日(土)14:00〜16:10(例会終了後に茶話会を予定)
会場:参加者にURLを送付
参加資格:なし ※会員、非会員にかかわらずご参加いただけます。
ただし、事前登録制(登録はコチラ※12月2日(木)17:00入力締切
回答後に変更が生じた場合、期日までにフォームを編集するか、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)まで直接、ご相談ください。

報告者①:塚越俊志(東洋大学非常勤講師)
報告タイトル:「ラクスマン来日前後の松平定信のロシア認識」
〈報告要旨〉
 ロシアの南下に対応すべく、老中田沼意次は天明5年(1785)普請役山口鉄五郎らに蝦夷地調査を命じた。田沼の老中解任とともに、この調査団の任務は終了した。この調査は松平定信が老中となっても一部引き継がれる。
 こうした情勢下で、寛政4年(1792)10月3日、ロシアから北部沿海州ギジガ守備隊長アダム・ラクスマン(Adam Kirillovich Laxman)陸軍中尉は漂流民となった神昌丸の船頭大黒屋光太夫らを送還するために、根室へやってきた。その時に、老中松平定信は「信牌」を渡し、交易をしたいならば、長崎に回るよう指示した。しかし、ラクスマンは長崎に回航せずにそのまま帰国した。
 本報告では、松平定信がロシアに対してどのような情報収集・分析を行って対応しようとしたのかを明らかにする。情報収集の対象として、定信以外の老中、蘭学者や儒学者らが挙げられるため、彼らの認識を踏まえた考察を試みる。

【参考文献】
木崎良平『光太夫とラクスマン』刀水書房、1992年
秋月俊幸『日本北辺の探検と地図の歴史』北海道大学図書刊行会、1999年
生田美智子『外交儀礼から見た幕末日露交流史』ミネルヴァ書房、1999年
松本英治「寛政期の長崎警備とロシア船来航問題」(青山学院大学文学部『紀要』第41号、2000年)
藤田覚『近世後期政治史と対外関係』東京大学出版会、2005年
高澤憲治『松平定信政権と寛政改革』清文堂出版、2008年
高澤憲治『松平定信』吉川弘文館、2012年

 

報告者②:藤本健太郎(長崎外国語大学講師)
報告タイトル:「明治期長崎における衛生行政の展開」
〈報告要旨〉
 明治18(1885)年から明治19(1886)年にかけ長崎区で発生した二度のコレラ流行の経験は「検疫停船規則」「伝染病予防心得」などに基づく、清潔法・摂生法・隔離法・消毒法の遵守及び励行に留まっていた同区のコレラ対策を短期間で一変させた。
 国際貿易港であった長崎においては、内国船・外国船の入港減少や風評被害という地域経済に悪影響を及ぼす事態に直面し、明治18年のコレラ流行後は避病院の増設や下水道の整備に乗り出すとともに、明治19年のコレラ流行後は衛生工事の中でも最良の手段と謳われていた上水道施設の整備へとコレラ予防対策が高まりを見せる。
 一連の動きの背景には、県立長崎病院の医師や市井の開業医たちによる臨床・一般民衆への啓発活動に加え、長崎県庁を中心とした行政官による県会の議決を超然した衛生費の補正予算執行や先例のない公債発行、上水道施設という都市インフラの整備に向けた実業団体の支援などが存在していた。
 強力な毒性を持つ感染症に続けて見舞われた、長崎区におけるコレラ予防対策が段階的に深化してゆく過程を、医学者・行政官・実業家それぞれの視点から明らかにしたい。
 
【参考文献】
市川智生「近代日本の開港場における伝染病流行と外国人居留地-一八七九年「神奈川県地方衛生会」によるコレラ対策-」『史学雑誌』第117巻第6号、2008年
松本洋幸『近代水道の政治史』吉田書店、2020年