洋学史学会若手部会

洋学史学会に所属する大学院生・学部生を中心とする若手部会です。

【紹介】本ブログおよび今後の開催予定について

 洋学史学会若手部会は、洋学史学会に正式に承認された支部であり、洋学史学会に所属する大学院生・学部生などを中心とする研究会です。原則として偶数月第1土曜日の午後に開催します。 各種研究報告はもちろん、洋学史研究に関連する情報収集・共有の場としていく予定です。洋学史学会非会員の方であっても、参加は可能です。本ブログでは、洋学史学会若手部会の活動について発信していきます。
2022年4月1日現在での会員数 41名(正会員26名、賛助会員15名)

 お問い合わせは、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)までお願いいたします。Informationにて運営委員、会則、入会方法等についてご案内しています。


今後の開催予定について
 詳細は開催1ヶ月前を目途に更新予定です。

オンライン例会を開催します。(2020年5月6日UP)
 洋学史学会若手部会では、新型コロナウイルス感染拡大防止を目的に、当面の間、オンラインにて例会を開催することといたしました。
 緊急事態宣言下にあっては、これまでのように一堂に会し、研究発表や意見交換を行なうことは困難です。そうした中でも、研究成果を報告する場を維持したい、若手研究者同士の交流を深め、研究活動のモチベーションを高めたいとの思いから、オンラインによる例会の開催を決定いたしました。


NEW!【若手エクスカーション/2023年1月9日(月・祝)】
茨城県古河市にて洋学関連の史跡および資料群をめぐるエクスカーションを実施する予定です(詳細は別途告知いたします)。
*2022年12月の例会は実施いたしません。

2022年度例会スケジュール】
2023年2月4日(土):武正泰史/阿曽歩

【例会実施報告】2022年10月例会報告

 洋学史学会若手部会では10月ハイブリッド形式(対面・オンライン)にて例会を開催し、研究報告が行われました。以下、その概要を報告いたします。

日時:2022年10月1日(土)13:30〜16:50
開催場所:対面(東京大学駒場キャンパス)、オンライン

報告者①:西脇彩央(京都大学大学院教育学研究科博士後期課程)
報告タイトル:「吉田清成と⻄南戦争―通信面を踏まえて―」

 本報告は1877年に勃発した西南戦争について、駐米公使・吉田清成(1845–1891)が発信/受信した情報を比較検討することで、彼が郷里で起こった戦争をどのように捉えていたのか考察した。
 アメリカにいた吉田の情報入手・発信手段は、知人との書簡や外務省からの公信、新聞記事や、渡米する人物を介した伝言であった。特に西南戦争について、外務省から戦況を報告する公信、義父である志村智常等からの私信、公使館が購入していた新聞記事によって吉田は情報を集めていた。吉田は西南戦争を引き起こした薩軍について、「薩賊」「暴徒」といった厳しい見方を見せていた。一方西郷隆盛が首謀者ではないといった吉田の発言が英字新聞に掲載されており、西郷の関与を信じ難く思う心情が見られた。
 質疑では、当時の日米関係において吉田の駐米公使としての役割、公人あるいは私人としての吉田の情報収集の立場、アメリカ側が求めた情報などについて議論された。また吉田からの書簡の現存状況について質疑応答が行われた。
                             (文責・武正泰史)

報告者②:増田友哉(東北大学大学院文学研究科博士後期課程)
報告タイトル:「佐藤信淵の宇宙論―洋学的天文知識の国学思想への影響をめぐって―」

 本報告は近世後期、知識人の間に広がった天文知識が国学思想に与えた影響を佐藤信淵に注目して検討したものである。佐藤は著作『天柱記』において神話の再解釈により宇宙が創造された根本理由を求め、西洋天文学が明らかにした宇宙の在り方が日本古来の神話等の記述と矛盾していないと結論づけた。それは暦学者の実学的関心とは違った「宇宙がなぜあるのか」という宗教的アプローチでもあった。西洋天文学は近世後期、蘭学者はもちろん国学者にも宇宙観のパラダイムシフトを齎すものであったが決して対立する存在ではなかった。報告者は天文知識が「国学的宇宙論」に与えた影響を明らかにし再評価すべきと論じている。
 フロアからは元来経済学者として紹介される佐藤信淵の天文学との関わりについて、天文学を説明する際、数理科学は応用されていたか、人的交流、長崎との関係性、平田篤胤とのアプローチの相違等についての質疑がなされた。

報告者③:報告者③:山本瑞穂(東京大学大学院人文社会系研究科博士後期課程)
報告タイトル:「近世後期の船籍問題にみる幕府対外政策―近藤重蔵の活動を中心に」

 本報告は近世後期、海防的見地から外国船の船籍確認の必要性が生ずる中で行われた船旗図の収集活動の意義を問い、その位置づけを考察するものである。収集活動の中心となった幕臣近藤重蔵は寛政8(1796)年、文化5(1808)年の2回に亘り海防の一助として旗図の設置を企図した。近藤以外にも長崎奉行、オランダ通詞、蘭学者等が船籍確認の必要性を認識し、旗譜の書写を行う者もいた。近藤等による旗譜に注目した活動の意義を幕府内部の勢力や対外政策の変化の中で捉え、欧米諸国における船籍承認の法的基準もふまえながら検討がなされた。
 フロアからは旗を揚げる船に関して商船と軍艦の区別がなされていたか、国家の旗に対する認識、国旗と海軍旗の区別、松平定信政権下における海防に対する積極性の影響等について質問・指摘があがった。
                            (文責・西留いずみ)

【開催案内】洋学史学会若手部会10月例会

洋学史学会若手部会では10月例会を開催します。
ご関心のある方はふるってご参集ください。

【洋学史学会若手部会10月オンライン例会】
日時:2022年10月1日(土)13:0013:30〜16:50
会場:参加者にURL配布
事前登録制、登録はこちらから。
※9月29日(木)18:00申込締切。
回答後に変更が生じた場合、期日までにフォームを編集するか、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)まで直接、ご相談ください。

報告者①:西脇彩央(京都大学大学院教育学研究科博士後期課程)
「在米公使館をめぐる通信環境と情報活動―吉田清成公使と西南戦争に注目して―」(仮)

〈報告要旨〉
 吉田清成(1845-1891)はその駐米公使時代(1874-1882)、外務本省との公信のやりとりだけでなく、多くの私信を取り交わし、日米の政治状況を含む多岐にわたる情報を発信・受信していた。通信相手としては寺島宗則や大隈重信等の日本政府関係者や、日本にいる吉田の身内、また米国内外のアメリカ人が挙げられる。
 本報告では、当時の通信事情を把握した上で、吉田がいかなる情報をいかに発信/受信していたのか、また公使という彼の立場を踏まえ、その情報活動はどのような意味を持ったのかを考察する。今回は特に、1877年に勃発した西南戦争に注目する。吉田の公信・私信とともに、日米の新聞記事、さらに駐日米国公使から米政府への公信を用い、西南戦争に関し、米政府の認識や米国社会で流布した情報と、吉田が得た情報及び吉田の発信した情報を比較検討する。
〈参考文献〉
有山輝雄『情報派遣と帝国日本Ⅰ』吉川弘文館、2013年。

報告者②:増田友哉(東北大学大学院文学研究科博士後期課程)
「佐藤信淵の宇宙論―洋学的天文知識と国学思想の融合―」(仮)

〈報告要旨〉
 本報告は、江戸後期の国学者である佐藤信淵(明和六年-嘉永三年・一七六九-一八五〇)の宇宙論において、洋学由来の天文学知識がどのように活用されたのかを『天柱記』(文政五~八年頃成立)を題材として検討する。そして、近世後期社会を生きた信淵における、国学思想と「科学」知識の奇妙な融合によってこそ、宇宙始まりの物語が創造され、その成り立ちを語る事が可能となった事を明らかにしたい。そもそも国学と洋学、特に天文学との関係は、本居宣長が仏教の世界観を否定するために天球説を援用する等、対立的な存在ではなかった。洋学を本格的に受容した信淵は、更に進んで、西洋天文学が明らかにした宇宙の在り方や法則が『古事記』等の神話と矛盾なく一致すると考えた。そのため信淵は、西洋天文学が明らかにした自転や公転、太陽系の配置といった知識と神々の物語を組み合わせた宇宙論を創造するのである。本発表は、従来の研究が非科学的迷妄として取りこぼした信淵の宇宙論を、国学思想が生んだ始原を語りうる宇宙論として再評価することを目的とする。
〈参考文献〉
中山茂『日本の天文学―西洋認識の尖兵―』(岩波書店、1972年)。
佐藤信弘『天柱記』(尾藤正英、島崎隆夫校注『安藤昌益 佐藤信淵』日本思想大系四五、岩波書店、1977年)。
上田晴彦「『天柱記』における地動説に関する考察及び太陽図に関する調査研究について」(『秋田大学教育文化学部研究紀要 自然科学』六八集、23–30頁、2013年)。
池内了『江戸の宇宙論』(集英社、2022年)。

報告者③:山本瑞穂(東京大学大学院人文社会系研究科博士後期課程)
「近世後期の船籍問題における旗図の役割」(仮)

〈報告要旨〉
 本報告は、近世後期における船旗図の収集活動を、国内外の政局の変化の中に位置付けることを目指す。19世紀前半の欧米諸国による日本接近に伴い、幕閣・長崎奉行・沿岸諸藩・オランダ通詞・洋学者らは異国船の国籍の判別手段の必要性を認識し、中にはオランダ商館を通じて旗譜の収集・書写を行う者もいた。当時幕府において西洋の地理書・歴史書の収集・活用を推進したのは若年寄堀田正敦だとされるが、本報告では彼のもとで働いた幕臣の近藤重蔵の活動に着目する。重蔵は寛政8年(1796)と文化5年(1808)の二つの時期に、欧米の船旗図を異国船対応に活用することを目指した。その意義について、幕府内部の勢力図および対外政策の変化に即して、また西洋諸国における船籍承認の法的基準もまた19世紀を通して形成されていったという経緯に留意しながら検討する。
〈参考文献〉
東京大学史料編纂所「正斎日記」(S近藤重蔵関係資料-2-43)。
岡宏三「長崎出役前後における近藤重蔵―人的関係を中心に―」(『青山学院大学文学部紀要』34、1993年)。
松田清「楽歳堂洋書と幕府天文台」(『洋学の書誌的研究』、1998年)。
藤田覚『近世後期政治史と対外関係』(東京大学出版会、2005年)。
横山伊徳『開国前夜の世界』(吉川弘文館、2013年)。

【例会実施報告】2022年8月オンライン例会

 洋学史学会若手部会では8月オンライン例会を開催し、研究報告が行われました。以下、その概要を報告いたします。

日時:2022年8月6日(土)14:00〜16:10

報告者①:萱田寛也(早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程)
報告タイトル:「江戸時代における小石川養成所の位置付け」

 本報告では、享保7(1722)年に設立された小石川養生所が江戸幕府の役人や当時の社会にとっていかなる位置づけにあったか、江戸時代後期を中心に考察を行った。
 同所に関する史料は「撰要類集」「養生所書留」「養生所一件」にほぼ限られる。本報告では、上記史料を用いて、勤務する医師や役人の不正、医学館の干渉などの悪条件にも抗い、同所が幕末まで存続した点に着目した。そして、入所希望者が減少傾向にあった天保期以降、幕府医師に代わる町医師の登用、同所に勤務した町医師の子息の登用禁止、医学館の運営に携わった多紀氏による修行目的の幕府医師送りこみを阻止、といった対応が取られたことを指摘した。また、そうした養生所の努力により格と技量を備えた医師が勤務する「御仁恵の場」という特質が維持され、長年の存続が可能となったことも明らかにした。
 質疑応答では、養生所における女性看護人登用の画期性に関する議論が行われ、同所に対する民衆の認識を確認し、国内の類似施設との比較を行う必要性などが指摘された。

報告者②:濱口裕介(東洋大学人間科学総合研究所客員研究員)
報告タイトル:「伊勢商人竹川竹斎が語った国策論「不能議」について」

 本報告において報告者は、江戸後期に活躍した伊勢の豪商竹川竹斎が記録した「不能議」の翻刻に初めて着手し、同資料の意義を検討した。
 両替を主業とする大商人であり殖産興業にも尽力した竹斎に関しては、これまで伝記や日記の刊行や主要著書の活字化など、主に地方史、文化史的観点から研究が進められてきた。本報告では竹斎が北海道改号論を熱心に説いた点に着目し、「不能議」を読み解いた。蝦夷地までを日本領とする幕府の捉え方と異なり、竹斎は古代からの五畿七道が日本領であるため、ロシア介入を阻止するためにも蝦夷地を北海道と改号して正式に日本領にすべきだと考えていたことが判明した。報告では、彼の北海道改号の論理が他にはないほど明確に示されていること点が、同史料の価値であることが確認された。
 質疑応答では、同史料が作成された際にも同席していた可能性のある小栗忠順の役割を確認すべきという意見が出た。また同史料を所蔵する三重県伊勢市の「射和(いざわ)文庫」について、その資料群の歴史的価値などが議論された。

                           (文責・佐々木千恵)

【開催案内】洋学史学会若手部会8月例会

洋学史学会若手部会では、8月例会を開催致します。
ご関心のある方はふるってご参集ください。

【洋学史学会若手部会8月オンライン例会】
日時:2022年8月6日(土)14:00〜16:10
会場:参加者にURL配布
参加資格:なし、※会員、非会員にかかわらずご参加いただけます。
事前登録制、登録はコチラ から。
※8月4日(木)18:00入力締切
回答後に変更が生じた場合、期日までにフォームを編集するか、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)まで直接、ご相談ください。

報告者①:萱田寛也(早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程)
報告タイトル:「江戸時代後期の社会における小石川養生所の位置づけ」(仮)

〈報告要旨〉
 本報告の目的は、江戸時代後期の社会における小石川養生所の位置づけを検討することである。小石川養生所は、経済的に薬を入手できない病人や、看病人がいない病人などを診察、治療するために、享保7年(1722)に小石川薬園内に設立され、幕末期まで存続した。小石川養生所の運営をめぐっては、先行研究において、幕府医学館が運営に関与しようとしたこと、19世紀以降、小石川養生所への入所希望者が減少し、その背景には小石川養生所に勤務する医師や役人の怠業があったことなど幾つかの論点が提示されている。その一方で、小石川養生所が幕末期まで存続した背景についても考える必要があろう。小石川養生所に関連する資料は多いとはいえない状況だが、残された資料から、江戸時代後期の社会における小石川養生所の位置づけについて考察したい。
〈参考文献〉
南和男「養生所の成立と実態」(同『江戸の社会構造』〈塙書房、1969年〉)
岩渕佑里子「寛政~天保期の養生所政策と幕府医学館」(『論集きんせい』22号、2000年)
安藤優一郎『江戸の養生所』(PHP研究所、2005年)

報告者②:濱口裕介(東洋大学人間科学総合研究所客員研究員)
報告タイトル:「伊勢商人竹川竹斎が語った国策論「不能議」について」

〈報告要旨〉
 幕末維新期を生きた伊勢の豪商竹川竹斎は、勝海舟のパトロン、独自の海軍論を唱えたことでも知られる。1866年(慶応2年)9月、竹斎は大坂で老中小笠原長行から諮問を受け、外国米輸入・蝦夷地開拓・鉄道敷設・海運整備などの国策を論じた。そのやり取りの記録「不能議」が、現在も竹川家の射和文庫に伝わっている。
 特に本史料において注目されるのは、蝦夷地開拓論を論じる中で北海道への改号の重要性を主張していることである。これは、同じ伊勢出身の松浦武四郎が明治新政府に道名選定を諮問され、「北海道の名付け親」として顕彰されていることとの関わりからも無視できない点である。
 本報告では、商人の立場から政治・経済・軍事といった多岐にわたる改革案を示したこの「不能議」を紹介し、その内容について多面的に検討してゆきたい。
〈参考文献〉
三重県飯南郡教育会編・発行『竹川竹斎翁』(1915年)
竹川竹斎翁百年祭実行委員会編『竹川竹斎』(1981年)
笹木義友・三浦泰之編『松浦武四郎研究序説』(北海道出版企画センター 2011年)

【例会実施報告】2022年6月オンライン例会

 洋学史学会若手部会では6月オンライン例会を開催し、研究報告が行われました。以下にその概要を報告いたします。

日時:2022年6月5日(日)14:00〜16:10

報告者①:臺由子(明治大学大学院博士後期課程)
報告タイトル:「佐賀藩における『マガゼイン(Nederlandsch magazuijn)』 の利用」

 本報告では、江戸後期に輸入されたオランダで出版された『マガゼイン(Nederlandsch Magazijn)』(1834~1845、新シリーズ1846~1858)について、佐賀鍋島家の『洋書目録』と武富文之助(圯南)が東京溜池の千住代之助にあてた書翰を史料として、佐賀藩における『マガゼイン』の利用に関する考察がされた。佐賀藩が所有していた『マガゼイン』の所在は不明だが、佐賀藩主の近侍で精錬方の増田忠八郎と、佐賀藩蘭学寮小出千之助の間で『マガゼイン』が利用された可能性があると指摘された。また、武富の書翰から大庭雪斎が『マガゼイン』の朝鮮人参に関する記事を訳させて、その効能を医者に確認させたとの指摘もされた。
 報告後は、フロアから佐賀藩が『「マガゼイン』に注目した背景として、蘭学者の箕作阮甫と佐賀藩の関係について、また『マガゼイン』自体がオランダ国内やフランスなどのニュース媒体(メディア)の記事を編纂して成立していることから、人参の記事についてその元となる記事はどこの国のどのような媒体に掲載されたかについて質疑が行われた。また、佐賀藩が『マガゼイン』を利用した背景には、長崎とのつながりからオランダの書籍に通じていたのではないかとの指摘もあった。


報告②:醍瑚龍馬(小樽商科大学商学部一般教育系准教授)
報告タイトル:「榎本武揚の化学者的特性―石鹸製造への関心を中心にー」

 榎本武揚(1836-1908)が書き記した「石鹸製造法」(国立国会図書館憲政資料室蔵)を出発点に、榎本の化学への関心、化学理解の特徴と思想形成の経過について報告があった。榎本の石鹸製造への関心は、獄中時代(1870~1872)に記された「石鹸製造法」に如実に表れている。この文書には、オランダ語で書かれた石鹸の成分表も含まれている。
 さらに報告者は、所属する小樽商科大学(商大)での共同研究プロジェクトとして、自身のゼミ生とともに「石鹸製造法」を読み解き、化学系の共同研究者およびゼミ生と連携して、石鹸の再現を試みた。今後、大学広報への活用や地域貢献の一環として、「榎本石鹸」の商品化を模索していきたいとの展望も示された。
 「石鹸製造法」や再現した「榎本石鹸」の完成度から、榎本の化学者としての専門性や先進性を見ることができる。こうした化学者的特性は、オランダ留学時代に形成され、「石鹸製造法」を執筆した獄中時代に成熟期を迎えたと考えられる。榎本の関心は、殖産興業を見据えた応用化学にあり、非藩閥政治家ながら明治政府の殖産興業を推進する基盤を形成したと結論づけた。
 質疑応答では、語学学習の背景、プロジェクトで調製された石鹸の市場性、今後の事業展開の可能性などについて議論があった。

 

                             (文・浦部哲郎)

【開催案内】洋学史学会若手部会6月オンライン例会

注:参加申し込みをされた方宛に、参加用URL等を記載したメールを送信済みです。未着の方は、運営までご一報ください。(2022年6月4日 8時加筆)

洋学史学会若手部会では、6月オンライン例会を開催致します。
ご関心のある方はふるってご参集ください。

【洋学史学会若手部会6月オンライン例会】
日時:2022年6月5日(日)14:00〜16:10(例会終了後に茶話会を予定)
会場:参加者にURLを送付
参加資格:なし ※会員、非会員にかかわらずご参加いただけます。
ただし、事前登録制(登録はコチラ※6月3日(金)18:00入力締切
回答後に変更が生じた場合、期日までにフォームを編集するか、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)まで直接、ご相談ください。

報告者①:臺由子(明治大学大学院博士後期課程)
報告タイトル:佐賀藩における『マガゼイン (Nederlandsch magazijn)』の利用

〈報告要旨〉
 江戸時代に輸入されたオランダ語の書物の一つに,挿絵入りの大衆啓蒙雑誌である『マガゼイン(Nederlandsche Magazijn)』がある(1834-1845, 新シリーズ1846-1858)。当時の日本での『マガゼイン』の利用は,「海外情報・文化の収集の手段や重視された情報が,知識の集積である百科事典から雑誌へと移行したことを示」すという指摘1もある。
 現在その所在は不明であるが,佐賀藩は『マガゼイン』を所有し,『洋書目録』の貸出記録が指摘されている。今回の発表では,武富圯南が千住大之助にあてた書翰を史料とし,「朝鮮人参」の記事を大庭雪斎に訳させていることに対して,『マガゼイン』が医学書ではないという考えを持つ人物がいる一方で,人参の効能を実際に試すといった佐賀藩の医学の一場面を見ることになる。佐賀藩での利用を読み解くことによって,『マガゼイン』の翻訳から実用につなげようとする姿勢を分析しようとするものである。

1 上野晶子「マガゼイン」『洋学史研究事典』p.147 思文閣出版 2021

〈参考文献〉
中野礼四郎編 『鍋島直正公伝』6 侯爵鍋島家編纂所,1920
齋藤信「佐賀鍋島家『洋書目録』」『西南諸藩の洋学』西南諸藩洋学史研究会,1985
松田清編『佐賀鍋島家「洋書目録」所収原書復元目録』京都大学大学院人間・環境学研究科 松田研究室,2006
青木歳幸 「佐賀藩における西洋医学の需要と展開」『幕末佐賀藩の科学技術』下 岩田書店,2016
青木歳幸 『佐賀藩の医学史』佐賀大学地域学歴史文化研究センター,2019

報告者②:醍醐龍馬(小樽商科大学商学部一般教育系 准教授)
報告タイトル:「榎本武揚の化学者的特性-石鹸製造への関心を中心に-」

〈報告要旨〉
 本報告では、幕末のオランダ留学などで洋学を学んだ榎本武揚の化学者的特性を石鹸製造への関心を中心に検討する。榎本が化学(舎密学)を学び石鹸や焼酎、流星刀などに興味を示していたこと自体は既に知られているが、実際に彼がどのようなタイプの化学者だったかまでは内在的に検討されていない。このような専門知の実態を明らかにすることは、明治維新期の学問水準の一端を内面的に知る手掛かりとして重要なだけでなく、榎本が旧幕臣にも拘わらず藩閥政府内で浮上できた要因を考える上でも欠かせない。そこで、本報告では榎本の化学者的特性に関し、特に彼が戊辰戦争後の獄中で記した「石鹸製造法」(国立国会図書館憲政資料室所蔵)に着目し、家族宛書簡などの関連記述、さらには実際に榎本が書いたレシピ通りに石鹸を復刻した実験結果などとも照らし合わせながら考察する。結論として、榎本の学問的関心が現代でいう純正化学にはなく、殖産興業を見据えた応用化学(工業化学)にあり、学問と実業の架橋に主眼が置かれていたことを指摘する。

〈参考文献〉
加茂儀一『榎本武揚-明治日本の隠れたる礎石』中央公論社、1960
芝哲夫「榎本武揚の化学志向」『化学史研究』35(2)、2008
芝哲夫「ポンペ(1829-1908)-化学の魅力教えた恩師」榎本隆充、高成田享編『近代日本の万能人・榎本武揚 1836-1908』藤原書店、2008
島田義照『日本石鹸工業史』大阪石鹸商報社、1932