洋学史学会若手部会

洋学史学会に所属する大学院生・学部生を中心とする若手部会です。

【第13回若手部会】内容報告

洋学史学会若手部会8月例会(第13回)を開催いたしました。今回は、会員2名による研究報告および臨時総会を開催しました。以下にその概要を報告いたします。

日時:2019年8月3日(土)14:00〜18:00

報告①

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報告者:渡邊奨太(立花学園高等学校地歴公民科非常勤講師)
題目:伊豆韮山代官江川英龍の海防構想―伊豆諸島防衛論・下田防衛論を中心に―

 本報告は江川の海防建議書を検討することにより天保後期からペリー来航までの江川の海防構想の全容を明らかにする試みであった。水野が老中であった天保後期においては海上輸送に重要な位置を占める伊豆諸島の海防を唱えていた江川であったが、阿部が老中首座となり、嘉永2年にマリナー号事件が勃発して以降は下田港の海防強化に力点を移した。江川は農兵の設置、大名駐屯体制の提案、台場建設、和蘭通詞設置(下田)など積極的かつ頻回建議書を提出しており、それらについて「江川家文書」を史料として詳細な報告がなされた。
 フロアからは本報告では天保後期からの海防構想が中心となっているが前期を含めないで構想全体を描き切れるのかと言った指摘や反射炉が下田から韮山に移った経緯、和蘭通詞設置に関する詳しい状況、農兵採用の意義などについて質問がなされた。

 

報告②

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報告者:塚越俊志(東洋大学非常勤講師)
題目:薩摩藩の蝦夷地、及びロシア認識について
 

 本報告では薩摩藩が蝦夷地に対していかなる認識をもって開拓・海防に臨んだか、またその情報収集はどのように行われたかが検討された。当初、薩摩藩の蝦夷認識は琉球より蝦夷地に危機感を抱いていた島津斉彬を中心に展開された。斉彬没後、しばらく顧みられることがなかったが明治期に黒田清隆が開拓使長官となり、斉彬の構想を受け継いで開発、防衛など北海道の近代化に貢献した。情報入手に関しては嘉永3年という斉彬藩主就任前の早い段階で北方を探索し『東北風談』を著した肝付兼武の活躍が顕著で吉田松陰等にも影響を与えていることが報告された。
 フロアからは函館奉行と薩摩藩の関係性、黒田と肝付の関係等の質問が出されたほか、有力藩が開拓に関わらなければならない状況で、どの藩が開拓し、どのように土地を分けたのか等今後明確にする必要性が指摘された。

                               (文・西留いずみ)