洋学史学会若手部会

洋学史学会に所属する大学院生・学部生を中心とする若手部会です。

【内容報告】2023年2月例会

 洋学史学会若手部会では2月例会を対面・オンライン併用のハイブリッド形式で開催し、研究報告が行われました。以下、その概要を報告いたします。

日時:2023年2月4日(土)14:00〜17:10
開催場所:対面(電気通信大学調布キャンパス)、オンライン(Zoom)

報告者①:武正泰史(東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程)
報告タイトル:「有馬頼徸と暦算家の関係」

報告時の様子①

 本報告は有馬頼徸(1714–1783)と同時代の暦算家、山路主住(1704–1772)と入江修敬(1699–1773)との関係を明らかにした。有馬は久留米藩主でありながら、和算書を30点以上も執筆している。有馬は山路に師事し、山路側の資料には有馬への直接の言及はないものの、有馬が作成した問題に関する言及があり、『山路蔵書』(1781年序)には有馬の著書が多数記録されていた。それに対して有馬は山路を師と述べ、江戸藩邸で談話した記録を残しており、両者の交流は、延享年間まで遡る。両者の仲介者として、久留米藩士稲次正礼の存在を指摘した。また、久留米藩は入江を1749年に「儒官」として召し上げている。入江の数学観は進歩主義的であり、かつ暦学と算術に通じる必要を述べ、高度な数学を天地測量に用いる点を強調するものであった。有馬と入江は相互に著作を参照していたが、有馬は入江の数理哲学数学観の影響は受けておらず、天文暦学に言及することはなかった。
 参加者からは、当時の和算家は天文への関心が高かったのか、大名である有馬が著作を多く残したことの意図、久留米藩校で和算が学びの対象となったか等の質疑がなされた。

報告者②:阿曽歩(フェリス女学院大学)
報告タイトル:「大槻家の学問と教育:「家学」の継承という視点から」

報告時の様子②

 本報告は、明治期において、大槻家の子孫が、父祖の学問を整理、継承しようとする中で、どのように自らの家の学問を認識し、いかに継承しようとしたのかを理解することを目的とした。大槻如電、文彦、茂雄といった明治期以降に活躍した大槻家の学者は、父祖である玄沢、磐渓の伝記を著している。如電による『磐水事略』では、父祖玄沢の偉業を子孫に伝えることを目的とし、家訓によって生業を成就したこと、蘭学を以って国家の幸福に資したことが語られる。また、茂雄は如電、文彦から聞いた物語をもとに『磐渓事略』を著した。そこでは、漢学者磐渓のイメージの払拭を目指し、不遇の中でも学問に取り組み、ペリー来航後、その学問が持てはやされ、開明的であったとする姿が描写される。父祖の教育や学問を明らかにし、実子相続で自身たちへと繋がるということが、大槻家にとってのアイデンティティを形成するものであった。
 参加者からは、家学とはどういう概念か、近代における顕彰や追贈との関係、大槻家の学問は箕作家と比較するとどう異なるのかといった質疑があった。

                             (文責・増田友哉

若手部会エクスカーション(巡検)にて古河歴史博物館を訪問しました(1/9)

 令和5年(2023)1月9日、洋学史学会若手部会の活動の一環でもあるエクスカーション(巡検)で古河歴史博物館(茨城県古河市中央町)を訪問しました。古河藩は、江戸時代初頭、家康の家臣の一人でもあった土井利勝によって藩政の基礎を固められた地で、近世後期以降の蘭学史・洋学史にとっては関係の深い場所の一つです。若手部会では、本年1月5日からの企画展示「雪の殿さま 土井利位」(2月26日まで)に合わせて、古河歴史博物館学芸員の永用俊彦氏の案内で、古河にある蘭学・洋学関連の資料を中心に館内展示を見学しました。案内をいただいた永用氏は、洋学史学会編『洋学史研究事典』(思文閣出版、2021年)の「古河の洋学」の執筆者でもあります。永用氏には、博物館の成り立ちから所蔵している資料群、展示物とその成立背景など、多岐にわたる内容を詳細に解説していただきました。とりわけ古河藩家老の鷹見泉石が収集した蘭学・洋学に関連する資料を展示した「鷹見泉石と洋学」(展示室1)や、土井利位が著した『雪華図説』に関する展示については学びが多く、参加者にとって改めて蘭学史・洋学史の知識を深める貴重な機会となりました。
 休日のお忙しい時間にもかかわらず、我々の巡検に長い時間お付き合いいただいた永用氏と同館職員ならびに学芸員の皆さまに、参加者一同心からの感謝を申し上げます。

古河歴史博物館ウェブサイト:
https://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/soshiki/rekihaku/top.html

エントランスホールにて、入り口の展示であるオランダのストリートオルガンについて学芸員の永用氏が解説する様子。実際に演奏を聴かせてもらいました。(撮影:堅田智子)

 

「鷹見泉石と洋学」の展示室で解説する永用氏と参加者の様子(撮影:橋本真吾)

 

『雪華図説』の展示について解説する永用氏と参加者の様子(撮影:橋本)

 

エントランスホールにて永用氏と参加者と集合写真

 

古河歴史博物館前の風景(撮影:堅田)

 

拝観後に立ち寄った鷹見泉石記念館の風景(撮影:堅田)

                              (文責・橋本真吾)

【開催案内】洋学史学会若手部会2月例会

洋学史学会若手部会では2月例会を開催します。
ご関心のある方はふるってご参集ください。
※本例会より対面・オンラインの併用での開催となります。

【洋学史学会若手部会2月例会(Zoom有り)】
日時:2023年2月4日(土)14:00〜17:10 ※終了後に茶話会を予定。
会場:電気通信大学(東京都調布市) 東1号館806教室(Zoom URLは後日レジュメ同時配布を予定)
事前登録制、登録はこちらから。
※2月2日(木)18:00申込締切。

報告者①:武正泰史(東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程)
「有馬頼徸と暦算家の関係」(仮)

〈報告要旨〉
 久留米藩7代目藩主である有馬頼徸(1714–1783)は、30点以上の和算書を執筆した、いわゆる和算大名である。彼の師匠は暦算家・山路主住(1704–1773)であることが知られている。一方で、暦算家の入江修敬(1699–1773)は寛延2(1749)年、を久留米藩士となる。有馬は入江が久留米藩士になる前に執筆した著作、『探玄算法』(1739年刊)を閲覧していた。また入江の他の著作である『天元術十二例』や『一源活法』の記述は、有馬の著述と類似している箇所が存在する。
 本報告では有馬頼徸と山路主住、入江修敬という2人の暦算家の関係から、有馬がどのように和算知識を吸収、研究していたのかを検討する。まず有馬と山路主住の交流時期、具体的には両者が延享年間には交流していたことを確認しつつ、両者の間における情報交換の様相を明らかにする。次に入江の略歴をふまえ、彼の著述が有馬の著作とどのように類似しているのかを確認する。

〈参考文献〉
佐藤賢一編『近世日本数学史』東京大学出版会、2005年。
日本学士院編『明治前日本数学史』第3巻、岩波書店、1957年。
渡辺敏夫編『近世日本天文学史』恒星社厚生閣、1986–1987年。

報告者②:阿曽歩(フェリス女学院大学)
「大槻家の学問と教育:「家学」の継承という視点から」(仮)

〈報告要旨〉
 本報告では、「家学」を継承する中で形成された大槻家の学問・教育観について考察する。近世日本においては、家の学問を継承する「家学」という営みがあった。たとえば、儒学では林家や古賀家、国学では本居家の事例が知られ、蘭学でも箕作家などが注目される(津山洋学資料館2019年夏季企画展「箕作家の歴史研究-西洋史はどう伝わったか-」など)。このように、近世の学問は「家業」という職業意識のもとで発展してきた側面がある。
 本報告で注目する大槻家は、蘭学の発展に寄与した玄沢をはじめ、儒者として名高い磐渓、博学家の如電、国語辞典『言海』を編纂した文彦と、学者の一族であるが、彼らの学問が総体的に注目されることは少ない。学問分野が多岐にわたっており、継承された跡が見えにくいことが一因と考えられる。しかし、大槻家の学問は、磐渓や如電、文彦により精力的に整理され、継承しようと試みられた。本報告では、磐渓および如電、文彦の著作に着目し、彼らが玄沢をはじめとする大槻家の学問を整理・継承しようとする中で、どのように彼らの家の学問を認識し、さらにいかに継承しようとしたのかを考察する。

〈参考文献〉
前田勉『江戸教育思想史研究』思文閣出版、2016年。
眞壁仁『徳川後期の学問と政治』名古屋大学出版会、2007年。

問い合わせ先:yogakushi.wakate@gmail.com(洋学史学会若手部会運営)

 

【例会実施報告】2022年10月例会報告

 洋学史学会若手部会では10月ハイブリッド形式(対面・オンライン)にて例会を開催し、研究報告が行われました。以下、その概要を報告いたします。

日時:2022年10月1日(土)13:30〜16:50
開催場所:対面(東京大学駒場キャンパス)、オンライン

報告者①:西脇彩央(京都大学大学院教育学研究科博士後期課程)
報告タイトル:「吉田清成と⻄南戦争―通信面を踏まえて―」

 本報告は1877年に勃発した西南戦争について、駐米公使・吉田清成(1845–1891)が発信/受信した情報を比較検討することで、彼が郷里で起こった戦争をどのように捉えていたのか考察した。
 アメリカにいた吉田の情報入手・発信手段は、知人との書簡や外務省からの公信、新聞記事や、渡米する人物を介した伝言であった。特に西南戦争について、外務省から戦況を報告する公信、義父である志村智常等からの私信、公使館が購入していた新聞記事によって吉田は情報を集めていた。吉田は西南戦争を引き起こした薩軍について、「薩賊」「暴徒」といった厳しい見方を見せていた。一方西郷隆盛が首謀者ではないといった吉田の発言が英字新聞に掲載されており、西郷の関与を信じ難く思う心情が見られた。
 質疑では、当時の日米関係において吉田の駐米公使としての役割、公人あるいは私人としての吉田の情報収集の立場、アメリカ側が求めた情報などについて議論された。また吉田からの書簡の現存状況について質疑応答が行われた。
                             (文責・武正泰史)

報告者②:増田友哉(東北大学大学院文学研究科博士後期課程)
報告タイトル:「佐藤信淵の宇宙論―洋学的天文知識の国学思想への影響をめぐって―」

 本報告は近世後期、知識人の間に広がった天文知識が国学思想に与えた影響を佐藤信淵に注目して検討したものである。佐藤は著作『天柱記』において神話の再解釈により宇宙が創造された根本理由を求め、西洋天文学が明らかにした宇宙の在り方が日本古来の神話等の記述と矛盾していないと結論づけた。それは暦学者の実学的関心とは違った「宇宙がなぜあるのか」という宗教的アプローチでもあった。西洋天文学は近世後期、蘭学者はもちろん国学者にも宇宙観のパラダイムシフトを齎すものであったが決して対立する存在ではなかった。報告者は天文知識が「国学的宇宙論」に与えた影響を明らかにし再評価すべきと論じている。
 フロアからは元来経済学者として紹介される佐藤信淵の天文学との関わりについて、天文学を説明する際、数理科学は応用されていたか、人的交流、長崎との関係性、平田篤胤とのアプローチの相違等についての質疑がなされた。

報告者③:報告者③:山本瑞穂(東京大学大学院人文社会系研究科博士後期課程)
報告タイトル:「近世後期の船籍問題にみる幕府対外政策―近藤重蔵の活動を中心に」

 本報告は近世後期、海防的見地から外国船の船籍確認の必要性が生ずる中で行われた船旗図の収集活動の意義を問い、その位置づけを考察するものである。収集活動の中心となった幕臣近藤重蔵は寛政8(1796)年、文化5(1808)年の2回に亘り海防の一助として旗図の設置を企図した。近藤以外にも長崎奉行、オランダ通詞、蘭学者等が船籍確認の必要性を認識し、旗譜の書写を行う者もいた。近藤等による旗譜に注目した活動の意義を幕府内部の勢力や対外政策の変化の中で捉え、欧米諸国における船籍承認の法的基準もふまえながら検討がなされた。
 フロアからは旗を揚げる船に関して商船と軍艦の区別がなされていたか、国家の旗に対する認識、国旗と海軍旗の区別、松平定信政権下における海防に対する積極性の影響等について質問・指摘があがった。
                            (文責・西留いずみ)

【開催案内】洋学史学会若手部会10月例会

洋学史学会若手部会では10月例会を開催します。
ご関心のある方はふるってご参集ください。

【洋学史学会若手部会10月オンライン例会】
日時:2022年10月1日(土)13:0013:30〜16:50
会場:参加者にURL配布
事前登録制、登録はこちらから。
※9月29日(木)18:00申込締切。
回答後に変更が生じた場合、期日までにフォームを編集するか、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)まで直接、ご相談ください。

報告者①:西脇彩央(京都大学大学院教育学研究科博士後期課程)
「在米公使館をめぐる通信環境と情報活動―吉田清成公使と西南戦争に注目して―」(仮)

〈報告要旨〉
 吉田清成(1845-1891)はその駐米公使時代(1874-1882)、外務本省との公信のやりとりだけでなく、多くの私信を取り交わし、日米の政治状況を含む多岐にわたる情報を発信・受信していた。通信相手としては寺島宗則や大隈重信等の日本政府関係者や、日本にいる吉田の身内、また米国内外のアメリカ人が挙げられる。
 本報告では、当時の通信事情を把握した上で、吉田がいかなる情報をいかに発信/受信していたのか、また公使という彼の立場を踏まえ、その情報活動はどのような意味を持ったのかを考察する。今回は特に、1877年に勃発した西南戦争に注目する。吉田の公信・私信とともに、日米の新聞記事、さらに駐日米国公使から米政府への公信を用い、西南戦争に関し、米政府の認識や米国社会で流布した情報と、吉田が得た情報及び吉田の発信した情報を比較検討する。
〈参考文献〉
有山輝雄『情報派遣と帝国日本Ⅰ』吉川弘文館、2013年。

報告者②:増田友哉(東北大学大学院文学研究科博士後期課程)
「佐藤信淵の宇宙論―洋学的天文知識と国学思想の融合―」(仮)

〈報告要旨〉
 本報告は、江戸後期の国学者である佐藤信淵(明和六年-嘉永三年・一七六九-一八五〇)の宇宙論において、洋学由来の天文学知識がどのように活用されたのかを『天柱記』(文政五~八年頃成立)を題材として検討する。そして、近世後期社会を生きた信淵における、国学思想と「科学」知識の奇妙な融合によってこそ、宇宙始まりの物語が創造され、その成り立ちを語る事が可能となった事を明らかにしたい。そもそも国学と洋学、特に天文学との関係は、本居宣長が仏教の世界観を否定するために天球説を援用する等、対立的な存在ではなかった。洋学を本格的に受容した信淵は、更に進んで、西洋天文学が明らかにした宇宙の在り方や法則が『古事記』等の神話と矛盾なく一致すると考えた。そのため信淵は、西洋天文学が明らかにした自転や公転、太陽系の配置といった知識と神々の物語を組み合わせた宇宙論を創造するのである。本発表は、従来の研究が非科学的迷妄として取りこぼした信淵の宇宙論を、国学思想が生んだ始原を語りうる宇宙論として再評価することを目的とする。
〈参考文献〉
中山茂『日本の天文学―西洋認識の尖兵―』(岩波書店、1972年)。
佐藤信弘『天柱記』(尾藤正英、島崎隆夫校注『安藤昌益 佐藤信淵』日本思想大系四五、岩波書店、1977年)。
上田晴彦「『天柱記』における地動説に関する考察及び太陽図に関する調査研究について」(『秋田大学教育文化学部研究紀要 自然科学』六八集、23–30頁、2013年)。
池内了『江戸の宇宙論』(集英社、2022年)。

報告者③:山本瑞穂(東京大学大学院人文社会系研究科博士後期課程)
「近世後期の船籍問題における旗図の役割」(仮)

〈報告要旨〉
 本報告は、近世後期における船旗図の収集活動を、国内外の政局の変化の中に位置付けることを目指す。19世紀前半の欧米諸国による日本接近に伴い、幕閣・長崎奉行・沿岸諸藩・オランダ通詞・洋学者らは異国船の国籍の判別手段の必要性を認識し、中にはオランダ商館を通じて旗譜の収集・書写を行う者もいた。当時幕府において西洋の地理書・歴史書の収集・活用を推進したのは若年寄堀田正敦だとされるが、本報告では彼のもとで働いた幕臣の近藤重蔵の活動に着目する。重蔵は寛政8年(1796)と文化5年(1808)の二つの時期に、欧米の船旗図を異国船対応に活用することを目指した。その意義について、幕府内部の勢力図および対外政策の変化に即して、また西洋諸国における船籍承認の法的基準もまた19世紀を通して形成されていったという経緯に留意しながら検討する。
〈参考文献〉
東京大学史料編纂所「正斎日記」(S近藤重蔵関係資料-2-43)。
岡宏三「長崎出役前後における近藤重蔵―人的関係を中心に―」(『青山学院大学文学部紀要』34、1993年)。
松田清「楽歳堂洋書と幕府天文台」(『洋学の書誌的研究』、1998年)。
藤田覚『近世後期政治史と対外関係』(東京大学出版会、2005年)。
横山伊徳『開国前夜の世界』(吉川弘文館、2013年)。

【例会実施報告】2022年8月オンライン例会

 洋学史学会若手部会では8月オンライン例会を開催し、研究報告が行われました。以下、その概要を報告いたします。

日時:2022年8月6日(土)14:00〜16:10

報告者①:萱田寛也(早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程)
報告タイトル:「江戸時代における小石川養成所の位置付け」

 本報告では、享保7(1722)年に設立された小石川養生所が江戸幕府の役人や当時の社会にとっていかなる位置づけにあったか、江戸時代後期を中心に考察を行った。
 同所に関する史料は「撰要類集」「養生所書留」「養生所一件」にほぼ限られる。本報告では、上記史料を用いて、勤務する医師や役人の不正、医学館の干渉などの悪条件にも抗い、同所が幕末まで存続した点に着目した。そして、入所希望者が減少傾向にあった天保期以降、幕府医師に代わる町医師の登用、同所に勤務した町医師の子息の登用禁止、医学館の運営に携わった多紀氏による修行目的の幕府医師送りこみを阻止、といった対応が取られたことを指摘した。また、そうした養生所の努力により格と技量を備えた医師が勤務する「御仁恵の場」という特質が維持され、長年の存続が可能となったことも明らかにした。
 質疑応答では、養生所における女性看護人登用の画期性に関する議論が行われ、同所に対する民衆の認識を確認し、国内の類似施設との比較を行う必要性などが指摘された。

報告者②:濱口裕介(東洋大学人間科学総合研究所客員研究員)
報告タイトル:「伊勢商人竹川竹斎が語った国策論「不能議」について」

 本報告において報告者は、江戸後期に活躍した伊勢の豪商竹川竹斎が記録した「不能議」の翻刻に初めて着手し、同資料の意義を検討した。
 両替を主業とする大商人であり殖産興業にも尽力した竹斎に関しては、これまで伝記や日記の刊行や主要著書の活字化など、主に地方史、文化史的観点から研究が進められてきた。本報告では竹斎が北海道改号論を熱心に説いた点に着目し、「不能議」を読み解いた。蝦夷地までを日本領とする幕府の捉え方と異なり、竹斎は古代からの五畿七道が日本領であるため、ロシア介入を阻止するためにも蝦夷地を北海道と改号して正式に日本領にすべきだと考えていたことが判明した。報告では、彼の北海道改号の論理が他にはないほど明確に示されていること点が、同史料の価値であることが確認された。
 質疑応答では、同史料が作成された際にも同席していた可能性のある小栗忠順の役割を確認すべきという意見が出た。また同史料を所蔵する三重県伊勢市の「射和(いざわ)文庫」について、その資料群の歴史的価値などが議論された。

                           (文責・佐々木千恵)

【開催案内】洋学史学会若手部会8月例会

洋学史学会若手部会では、8月例会を開催致します。
ご関心のある方はふるってご参集ください。

【洋学史学会若手部会8月オンライン例会】
日時:2022年8月6日(土)14:00〜16:10
会場:参加者にURL配布
参加資格:なし、※会員、非会員にかかわらずご参加いただけます。
事前登録制、登録はコチラ から。
※8月4日(木)18:00入力締切
回答後に変更が生じた場合、期日までにフォームを編集するか、洋学史学会若手部会運営(yogakushi.wakate@gmail.com)まで直接、ご相談ください。

報告者①:萱田寛也(早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程)
報告タイトル:「江戸時代後期の社会における小石川養生所の位置づけ」(仮)

〈報告要旨〉
 本報告の目的は、江戸時代後期の社会における小石川養生所の位置づけを検討することである。小石川養生所は、経済的に薬を入手できない病人や、看病人がいない病人などを診察、治療するために、享保7年(1722)に小石川薬園内に設立され、幕末期まで存続した。小石川養生所の運営をめぐっては、先行研究において、幕府医学館が運営に関与しようとしたこと、19世紀以降、小石川養生所への入所希望者が減少し、その背景には小石川養生所に勤務する医師や役人の怠業があったことなど幾つかの論点が提示されている。その一方で、小石川養生所が幕末期まで存続した背景についても考える必要があろう。小石川養生所に関連する資料は多いとはいえない状況だが、残された資料から、江戸時代後期の社会における小石川養生所の位置づけについて考察したい。
〈参考文献〉
南和男「養生所の成立と実態」(同『江戸の社会構造』〈塙書房、1969年〉)
岩渕佑里子「寛政~天保期の養生所政策と幕府医学館」(『論集きんせい』22号、2000年)
安藤優一郎『江戸の養生所』(PHP研究所、2005年)

報告者②:濱口裕介(東洋大学人間科学総合研究所客員研究員)
報告タイトル:「伊勢商人竹川竹斎が語った国策論「不能議」について」

〈報告要旨〉
 幕末維新期を生きた伊勢の豪商竹川竹斎は、勝海舟のパトロン、独自の海軍論を唱えたことでも知られる。1866年(慶応2年)9月、竹斎は大坂で老中小笠原長行から諮問を受け、外国米輸入・蝦夷地開拓・鉄道敷設・海運整備などの国策を論じた。そのやり取りの記録「不能議」が、現在も竹川家の射和文庫に伝わっている。
 特に本史料において注目されるのは、蝦夷地開拓論を論じる中で北海道への改号の重要性を主張していることである。これは、同じ伊勢出身の松浦武四郎が明治新政府に道名選定を諮問され、「北海道の名付け親」として顕彰されていることとの関わりからも無視できない点である。
 本報告では、商人の立場から政治・経済・軍事といった多岐にわたる改革案を示したこの「不能議」を紹介し、その内容について多面的に検討してゆきたい。
〈参考文献〉
三重県飯南郡教育会編・発行『竹川竹斎翁』(1915年)
竹川竹斎翁百年祭実行委員会編『竹川竹斎』(1981年)
笹木義友・三浦泰之編『松浦武四郎研究序説』(北海道出版企画センター 2011年)